さて、新生・精吾の部屋その1である。

時は1971年7月24日から8月2日、場所は当時の晴海国際貿易センターであった。
ヨーロッパでの「邪宗門」の公演を終え‘71『地獄より愛をこめて』を上演した。タイトルが違ってはいるが内容はほとんど「邪宗門」に近いものであった。
広い会場には(十代だったと記憶しているが)「世界美女コンテスト」?があったり「フルーツガム・カンパニー」(このロック・バンドが当時、名を馳せていたか否か、実はレコードも持っていなければ今もって知らない)が出演したりして話題にはなった。

主催・名誉会長はおらが村の出身で誇りでもあった石田博英労働大臣であった。

その舞台で、寺山さんから渡された5枚の詩を朗読することになった。










初日、「安宅 誠次」から始まる電話帳の名前(別にタイトルはなかった)を完璧に全部覚え切れなかった。
「安達 東」(ポリエチレン)までは何とかいけたが何故か「安達イヨ」が出なかった。
咄嗟に小さな寒村の小学校の同級生の名前を思い出してゆっくりと北から順番に読み上げていった。
具体的に書こう。北から餅田、山田渡、赤石沢、立花、川口上、中、下、横岩、これらが集合して下川沿村が形成されていた。あの地区には、あいつとあいつがいた、こんな感じである(余談になるが、ここは小林多喜二生誕の地でもあった)。今でもすらすらと名前が出てくるので実名で書きたいがプライバシーもあろうから、あえて掲示しない。


そして初日は終わった。
「昭和、ちょっと表へ来い」
「ハア」
寺山さんに呼び出された。
「昭和は天井桟敷をやめて明日から電々公社へ行って電話帳でも作れ」
「ハア」
「電話帳は正確にアイウエオ順に書かれいているもんだ、俺の書いた通り読まないと後の詩の意味が通じないだろう」「ハア」
「いいか、明日から頼むぜ」


生原稿の縦棒の線は正確に覚えるために自分が区切って引いたものである。
しかし、2日目もやっぱり駄目であった。終わってすぐ今度はこちらから寺山さんの所に行って素直に謝った。
「あの〜覚え切れない言い訳ではないスが、寺山さんの書いた詩には思想が入っていて、すぐに言えるんですが、どうも、電話帳の固有名詞には思想がない?ような、そんな感じで〜」
一瞬、苦笑いをして「まあ まあ」(これって意外と寺山さんの口癖でもあった)。
3日目からは何も言わなくなった。

回を重ねるごとにボルテージが上がっていき最後の絶叫もバッチシと決まっていったが何としてもお粗末な昭和版「電話帳」であった。その晴海も今や高層ビルやマンションが立ち並び、こんな懐かしい小さなやり取りも土中に埋もれて
いってしまった。「いい天気だよ 李は見も知らぬ連絡船に手を振った」思わず寺山さんの李庚順の一節が浮かぶ今日のお江戸の空である。